孫子(孫武)

  孫武は春秋時代の末に、(せい)(現在の山東省)に生まれ、現在の蘇州辺りに国を構えた呉王闔閭(こうりょ)に仕え将軍となった。司馬遷(しばせん)の「史記」には、孫武が初めて呉王闔閭に(まみ)え、兵法を問われたときの次のような挿話が記されている。(概要) ( )

  ”孫武は王の寵姫(ちょうき)を隊長に、侍女(じじょ)を兵士にみたて訓練を実践したが、一向に規律がなく笑い転げるばかり。そこで孫武は、規律がないのは自分の説明が伝わっていなかったからだと、再度( )隊長の寵姫に対しても詳しく説明を加え、充分理解させた上で再度寵姫( )に号令を出させた。
 しかし、侍女たちは同じように笑い転げるだけ。呉王( )も従侍たちも孫武を笑う。しかし、孫武は毅然として言った。「私の説明は充分理解したはずだ。このように規律が保てないのは隊長に責任( )がある」と。そして、隊長である寵姫(ちょうき)の責任を追及し切り捨てた。その結果、侍女たちは命令に従って規律ある行動をとった。” ( )

  史記には孫武の将軍としての具体的な記述はないが、<孫子列伝>には、呉は強国()を破り楚都(えい)に進行、北は斉、(しん)を脅かし諸国に呉の名を知らしめた。これはひとえに孫武( )の力によるものである、と記されている。
  また、この後、越王勾践(こうせん)との戦いで闔閭が戦死し、呉王となった子の夫差(ふさ)は再起を計り「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の日々を送った結果、越を滅ぼした。この時、越には五子胥(ごししょ)、呉には范蠡(はんれい)が宰相としており、彼らの壮絶な生き様が記されている。 ( )
  なお、約百年後に孫武の子孫と言われる孫臏(そんびん)の「孫臏兵法」がある。


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